自然観の違い

一度自分の自然観を整理してみたいと思っていた。「自然にやさしい」「自然と向き合う」「自然の中で生きる」は私もよく使う言葉だ。さて現在私達は普通に使っているこの「自然」という言葉は日本では明治後期から使われ始め、それまでは自然に相当するものとして日本人は「天地有情」という言葉を使っていたらしい。有情には人間も含め生きとし生けるものの営みと想いがこめられているのではないか。それどころか恵みも豊かに与えてくれると同時に自然災害も与える天地の神の想いが、有情の中心にあるのかもしれない。

私の勝手な解釈だが・・・。

さて自然については西洋的考え方と日本的感覚を比較してみるとその違いが浮かび上がってくるかもしれない。

ここでの問題は自然を客観的対象としてみるか、あるいは自分も自然の一部として共生の世界に生きるかという設定に置き換えることもできる。

自然を客観的対象と見るのは科学的精神に基づいた西洋的考え方、自分も自然の一部として見るのは日本人が縄文時代から受け継いできた感性と整理してみたらどうだろうか。後者は正確に言うなら自然という概念も認識さえもない天地有情の中で人は生かされているという感覚だ。それだけ融合、一体化されている。

ただ西洋でも人々が「自然」という概念に向き合うようになったのはルネッサンス以降と言われている。視線が神のおられる天から地上に下がってきた時、また合理主義、科学的精神の発展期に、富の源泉としての自然が目の前に現れたのではないだろうか。

一方日本では明治以降自然と言う言葉が輸入され、自然が対象化、思想化されたと言われている。言い換えれば自分達が今までその中で生きていた自然の中から出て、自然の外に出て自然と向き合うようになった。その時、自然はどのような意味合いを帯びるようになったのか。また日本人のこころから何が失われていったのか。

私は屋上で、また露地で野菜、果樹を栽培している。それは商品として農産物を販売するためではなく、人々の日々の暮らし、社会の基礎に「農」の価値を取り戻したいと考えているからだ。特に屋上での野菜、果樹の栽培について以前マニュアルのようなものをつくることを考えたが、今は技術論だけではなく、情感も加えたい。もし私が自分の栽培経験をまとめるとしたら「野菜栽培愛情物語」となるだろう。