若き日の思索・森有正の著作から

 

20代後半、私は森有正の「バビロンの流れ」に出会い、それ以来、森有正の本を読み続けている。私の生涯を導く著作と言ってもいい。28歳の時、「バビロンの流れ」一冊を持って私は半年の予定でヨーロッパに向かった。ギリシアの町、アテネ、コリント、デルフフォイを歩きながら、「バビロンの流れ」の中のギリシアの箇所を辿るように読んだ。アテネのオレンジがたわわに稔っていたシンタクマ広場のベンチで、コリントの地峡で、デルフォイとアテネを往復するバスの中で。学生時代、私もマルクス主義に惹かれ、大学の卒業論文では、ハンガリーの哲学者、ジェルジ・ルカーチの「歴史と階級意識」を取り上げた。学生時代は、若きマルクスの「経済学・哲学手稿」とルカーチのこの著作が、私の思想のベースとなっていた。テーマは人間の疎外と世界の物象化だった。それを打ち破るのが革命活動だったが、学生運動が終焉期を迎えた頃、私の心の中、いや正確に言うなら魂の中は空洞になっていた。あるいは廃墟のようだった。その時、出会った「バビロンの流れ」を読み、荒涼とした心の世界に確かに一本の清冽な小川が流れ始め、私は深い慰めと、まだまだとてもそこまでにはいかないと思いながら、同じような感覚を持った人がいることに歓びを感じた。「生きていこう」と思った。今朝、本棚にある森有正の「セーヌの辺で」を久し振りに取り出し、「セーヌの流れに沿って」を読んだ。「悲しみと心の慰め」を別々の感情ではなく、一つの感情として感じる森有正の気持が今の自分なら分かるような気がする。なぜならその積み重ね、堆積が人生なのだと、鈍い私にもやっと分かってきたのだから。5年前、森有正が最後に住んでいた、ノートルダムがセーヌの対岸に見える、アパルトマンの前に私は佇んでいた。セーヌの流れを見ていた。私にはもうそれだけで十分だった。そしてメトロに乗り、パリの街を歩いた。そんなことを昨日のように思い出しながら、本を閉じ、夜明けの空を見上げた。どこからか「カンパニュラの恋」の歌声が微かに聞こえてくる。