表現の多様性について
蟹江敬三さんが亡くなった。略歴の紹介の中で昔は悪役でならした、とあったが私自身の記憶には悪役のイメージは殆どない。最初にいい俳優だな、と感じたのは鬼平犯科帳の小房の粂八だった。悪役と言えば最近は遠藤憲一がいる。蟹江さんの跡を継ぐ悪役候補ナンバーワンかもしれない。以前遠藤の役作りについてもその考えを雑誌で読んで「そこまで考えているのか」と感銘を受けたことがあった。俳優は脚本の文字を肉体で表現する。どのような表情で、また仕草と声で文字を血肉化して、見るものに伝えていくか。考えてみると大変な仕事だ。テレビドラマを見ていて、出演者の演技を見ていてどんな演技でも率直に「すごいな」と私などは思う。勿論巧拙はある。
必殺仕掛け人、はぐれ刑事純情派、剣客商売などの作品で主役を演じた藤田まこと。若い頃は「てなもんや三度笠」で白木みのるの珍念とコンビを組んで人気を博したが、その後暫く売れない時期があった。その期間、藤田は「押す芸から引く芸」に転換したと言っている。「引く芸」とは素人の私には分からないが、その引く芸風が藤田まことを大スターにしたことは間違いない。以上は俳優についてだが、最近ハマッテいる桂銀淑の歌について述べたい。桂銀淑の歌はどの歌もいい。最初は「すずめの涙」を特に好んで聞いていたが、最近は「大阪暮色」を繰り返し聞いている。同じ歌手でも表現に変化が出てくる。桂銀淑が1992年に唄った「大阪暮色」は出色の出来で、桂の表情も素晴らしいが、特に「あほやねん、すきやねん、忘れへん」に大阪の女性の真情が込められているように感じられてならない。そのように感じさせる声と表情だ。同じ「大阪暮色」を門倉有希と安西かおりがカバーしている。いずれも胸に迫ってくるものがある。それぞれの表現の多様性にただただ感服するばかりだ。文字を血肉化して、聞く者を感動へと誘う。表現はまさに創造的行為、と思わされている。