解釈の違いと真実

解釈というのはある意味で勇気のいることであり、またなぜそう解釈したのか、その根拠についての説明も求められる。簡単に言えば、解釈とは事実について述べるだけではなく、その意味を明らかにして、さらには私たち自身への影響、関係にも触れることである。テレビのコメンテーターの発言を聞いていて、納得の行く解説を聞くと、思わず耳を傾けたくなる。テレビ各社ともメインコメンテーターの人選には最大限の努力を払っているのではないか。事実、状況、時代を読み、解釈するということは現代のように複雑な時代にあっては容易なことではない。各テレビ局のメインコメンテーターの解釈を参考にして、自分なりの解釈力を身につけていきたいものだ。

さて最近教会の礼拝メッセージでヨハネの福音書20章の有名なトマスの信仰告白の個所で説教者が印象的なメッセージをした。28節、29節のところだ。

28節「トマスは答えてイエスに言った。『私の主。私の神。』

29節「イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです』

説教者は「見てから信じたトマスは幸いではなかったか、いやそんなことはないと思います。29節はイエスを直接見ることのできない後世の私たちのためにも語られているのではないでしょうか」と解き明かした。

後で他の注解書を読むと、感覚的な経験は確かな根拠にならないことを説明しているとあった。

私の個人的な解釈は以下のようになる。

1.イエスは十字架に架かる前にご自身の復活を弟子達に明確に告げられたが、弟子達はそのことを本当のところ(霊的に)理解していなかった。トマスもその一人だった。

ご自分の復活を感覚的にではなく霊的に理解し、信じさせることを願っていたのではないかと思う。なぜなら信じるということは聖霊の働きが無ければできないことだから、ペンテコステの日に聖霊が下り、使徒たちは命がけで伝道に励むようになる。

2.29節は著者ヨハネによる挿入ではないか。つまりこの福音書が書かれた目的を説明している。そしてトマスもこのヨハネの福音書編集に協力したのではないかとも考えている。

解釈は真実に迫る努力であり、いわば登山ルートでもある。いくつかのルートがあってもいいのではないか。