詩を読んで眠り、目覚めてすぐ詩を読む

昨日仕事の帰りに駅のすぐそばにある図書館で本を2冊借りた。最近散歩の途中で図書館に寄った時、立ち読みしていてもう少しゆっくりと、時間をかけて全部読んでみたいと思った本だ。1冊は長田弘の「最後の詩集」。もう一冊は火坂 雅志の「武士の一言」。長田は今年、火坂は昨年亡くなっている。

昨晩は寝る前に布団の中で、エッセイ「日々を楽しむ」の2編、「お気に入りの人生」と「何もしない」を読んだ。気持としては小さな宝石、小さな真珠をゆっくりと眺めるような、楽しむような読み方となった。もっと読めたが、2つで止めて寝室の蛍光灯を消した。布団の中で長田弘さんの気持ちに自分の気持が静かに重なっていくのを感じていた。「お気に入りの人生」の中で長田さんは「食べた後にはもう一つ、間が欲しい」という。「何も考えない、ほんの少し無の時間」。この話はお気に入りの人生への思いに拡がっていく。もう一つは「何もしない」。何もしないためになくてはならないもの、それは毎日座る椅子となる。

長田さんのエッセイを読みながら布団の中で思ったことは、人生年齢をとるにつれて馴染みの時間、馴染みのものがいつの間にか出てくる・・・ということだった。

今の私の場合、馴染みの、気持ちが無になれる「間」のような時は、2階の書斎の窓から眺める青空と雲だ。最近青空としての私、という意識が出てきてからは青空を見上げる時は、自分を無にする時になっている。

馴染みのものは旅行先で何気なく拾った2つの石。一つは静岡県三保の松原の海岸で拾った茶色で小判状のもの。もう一つは埼玉県小川町の槻川で見つけた、青みがかったサツマイモのような形をした石。机の上で書類を抑えるために使っている。・・・

そんなことをぼんやり考えながら、また今日の一日が無事に終ったことに感謝しながら睡った。目覚めてから暫く朝焼けの空をボンヤリ見てから、枕元の長田さんのエッセイの続きを読んだ。「習慣のつくり方」「ドアは開いている」「探すこと」「ネムルこと」。

とりとめもない小さなことの中に、人生の宝石とも言うべきものがあるのではないか、長田さんの詩集を閉じながら、そう思ったことだ。

会社の後始末をする人々