豊かさと幸せ

最近豊かさと幸せについて、また違いについて考えている。豊かさとは何か。また幸せとは何か。自分の体験・実感としては子供時代、まだ高度成長経済の始まる前は、小学校にも焼け跡が残り、二部制だった。子供達がたむろする場所と言えば、駄菓子屋。テレビが無い時代、真空管ラジオの側で夕方放送される紅孔雀とかオテナの塔など(確か福田蘭堂作だったと記憶している)に聞き耳を立てていた。食べるお米は準内地米とかいう米で炊く前に小さな黒い虫探しなどをした。家での私の担当は風呂を沸かすことと鶏の世話だった。鶏は卵を取るためだ。東京都北区上十条の家の近くを川が流れていて、その川に大人が入って金属屑のようなものを探していた。子供達の遊びと言えば、ベーゴマ、メンコだった。その後テレビが普及し始め、「パパは何でも知っている」「名犬ラッシー」を見た。アメリカの家庭の豊かさに憧れた。特に食べ物に。「アメリカ人は豊かな生活をしているんだ。着ているものもきれいだし。家族同士の会話もいいな。アメリカのお父さんは子供の話もちゃんと聞いてくれる・・・」

日本は復興期、私の両親もそうだが、大人達はそれこそ生きるのに必死だったことだろう。ニコヨンと言われたヨイトマケの人達が働いているところも見かけた。

大学を出て会社に就職した。ほぼ毎日残業の時代が始まった。社会全体が「アメリカに追いつけ追い越せ」という感じで、がむしゃらに働いた。土曜日も働いた。家庭を顧みるという意識はまるでなかったように思う。経済的豊かさが全てを解決するような気持ちだった。大袈裟に言えば経済的豊かさがある意味では全知全能の「神」のような意味合いを持っていたのかもしれない。給料は右肩上がりで増え、大変だったが家を建てることもできた。バブルを経験し、バブル破裂、その後の経済低迷もいやというほど味わった。

現在日本は経済的に豊かになった。アメリカに追いつき追い越したのかが定かではないが、赤字国債の残高が地方債を含めると1600兆円以上になり、日本の安定基盤だった中産階級が崩壊し、格差が拡大している。経済的豊かさという擬似的は「神」は死んだのかもしれない。その意味でも私達は現在「幸せ」ということを再考する時期に来ていると思う。

やはり上位概念は「幸せ」なのだ。経済的豊かさは「幸せ」を支える下位概念ではないのか。自分にとって「幸せ」とはどんなことか、ぼんやりしている。まず記憶を辿って思い出すことから始めてみたい。