貧しい者は幸いである

イエスの山上の説教として有名な個所である。ルカの福音書では「貧しい者は幸いです。

神の国はあなたがたのものですから」とイエスは目の前にいる弟子達を見つめながら言った。マタイの福音書では「心の貧しい者は幸いです」と「心の」が追加されている。私たちは普通心豊かな人生を願っている。この日本語訳は不十分ではないかと私は感じている。

それだけでなく不必要な誤解を招きかねないとも思っている。

実際にイエスが語ったのはルカの福音書の言葉だったのではないか。ルカは直接イエスの

言葉を伝えた。マタイは「心に」を加えることによって貧しい人々の経済状態だけではなく、精神状態も映し出そうとしたのではないか。このあたりはカトリック司祭の井上洋治氏の「イエスの福音にたたずむ」で指摘されているように「霊において貧しい」「神さまだけにしか頼れない」という意味ではないかと理解したい。

同じくカトリック信者の山浦玄嗣氏はこの個所を以下のようにケセン語に翻訳している。

「頼りなく、望みなく、心細い人は幸せだ。神さまの懐にシッカリと抱かれるのはその人たちだ」

ところで最近思うことがある。この山上の説教を聞いていた当時の経済的にも精神的にも貧しい庶民は、イエスの伝道開始と十字架の上での死をどのように受けとめたか、そのことをイメージしてみたいということである。当時の、経済的にも精神的にも貧しい一般の庶民は「この人こそ」とかけた期待を裏切られたような気持ちになったのではないか。

イエスの病気癒しと力ある業を見た人々は、イスラエルをローマ帝国の支配から、また宗教的支配層から貧しい人々を、現実的に解放してくれるという期待をイエスに寄せたのではないか。また弟子たちは今直ぐにでもイエスが再び地上にやってこられ、死さえも克服した王としてイスラエルを再興してくれることを期待した。

しかし現実的には何も起こらなかった。

当時の経済的にも精神的にも貧しい庶民はイエスに裏切られたような失望感に陥っていったのではなかったか。それにもかかわらずなぜイエスの教えは世界宗教としてのキリスト教になったのだろうか。