選択ということについて
人生は選択の連続とも言われる。私にとってそれまでかつて無かったほどに大きな転換をもたらしてくれたのはV.フランクルの「夜と霧」の1節だった。私はそれまでの人生で最大の危機に直面していた。生きる力を失っていた。
「人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。・・・われわれはその問いに、詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなければならないのである」もう一節。「人間は苦悩に対して、彼がこの苦悩に満ちた運命と共にこの世界でただ1人1回だけ立っているという意識にまで達せねばならないのである」(P183~184)
私にとって本当に必要だったのは慰めとか励ましではなく、自分の人生に対する責任意識をしっかり持つことだったのだ。「責任」という言葉が私を立ちあがらせ、甦らせた。
そしてこの意識は今でも私の心の中に伏流水のように流れ続けている。今考えてみれば、私は「責任」を選択したということになる。会社を自主廃業した時も、いけるところまでいっての倒産ではなく、早めに見切りをつけ自主廃業を選択した。結局私たちは事の大小を問わず意識していると無意識であると問わず、いつも選択しているということなのだと思う。そしてその選択の結果として、現在があり、未来がある。私たちは時として、「いや、それは私が選択したのではなく、強制的に、あるいはそうせざるをえなかったためにそうした。選択の自由はなかった」と言う。そうかもしれない、しかしそれでもそうでなかった面もあるかもしれない。少なくとも他人に自分の今の状態について責任を転嫁することはできないことなのだ。現在に生きる私たちは本当の選択をすることを誰しも求められているのではないかと思う。以前NHK教育テレビでシーナ・アイエンガーの「コロンビア白熱教室」を見た。選択ということについて理解を深める機会になった。またその後W.グラッサーの選択理論を紹介してくださった方がいた。現在私の机の上に2冊の選択についての本がある。「グラッサー博士の選択理論」(アチーブメント社)と「選択の科学」(文芸春秋)だ。シーナ・アイエンガーは言う。「選択するということは、すなわち将来と向き合うことだ」「選択は人生を切りひらく力になる。私たちは選択を行い、そして選択自身が私たちを形作る」これからの人生をより良い人生にするために「選択」ということについて学びと実践を続けていきたい。人生を本当に完成させるために。