限界集落株式会社(中)畑が人を許す、人が人を許す

最終回では登場人物それぞれの人生の物語が明かされ、人々の間に許し合い、和解が生まれた。畑が自分達を許してくれたなら、その許しの力が分ったら、今度は人が人を許す番だ。ここで私が心を打たれたのは畑に一種の人格性を認めていることだ。あるいは畑に宿っている神と言い換えてもいい。なぜなら「許す」という高度な行為は人格性がなければできないからだ。正登は亡き父親の農事日誌を徹夜で読んだ後、先祖代々耕してきた畑の土に先祖代々の魂が宿っていることに気付いたのではないか。そしてその畑の土に流された先祖と亡き父親の流した汗と涙を、何度も襲ってきた苦難を畑で働き続けることによって乗り越えてきた家族の歴史を夢の中で見たのかもしれない。一旦は畑を捨て、家族を捨てた正登だが、都会の生活に見切りをつけ、限界集落に戻ってきた自分を畑は黙って受け入れてくれた。そして親爺と同じように何度も何度も失敗しても受け入れ、また挑戦させてくれる畑。畑がそこまでしてくれるのだから、畑で生きている人間同士、互いに許し合い、本当の仲間となって集落を希望が持てる場所にしていかなければいけないんだ、という思いが正登の中に天啓のように閃いたに違いないと思う。

都市で仕事をしている、批判精神に溢れた新聞記者、テレビ記者には「1000回も畑が許す」という言葉の意味は分らなかっただろう。欧米社会では罪を告白して神の許しを求める。そのためには悔いた心を神に捧げなければならない。しかし、日本では事情は少し異なるかもしれない。それは鉄平の言動を見ると良く分る。記者会見の席上での正登の言葉に鉄平は涙を流す。許されている、だから二度と同じ失敗をしないように反省して頑張る。爽やかだ。正登は娘の美穂に謝る。「黙って出て行って悪かった」。美穂はその言葉が胸の底まで落ちていく時間を見届けてから答える。「ありがと。・・・・お父さん」

今の限界集落にとってなによりも必要なのは正登の言うように「今の自分達にとって必要なのは何よりも人です」。許すという行為は実は許しあう行為なのだ。許しているつもりが実際は許されている。人は失敗する、また挫折する。他の人に心ならずも迷惑をかけたり、損害を与えたりもする。競争原理の都会ではそのような人間は排除され、落ちこぼれていく。しかし、集落は、畑は、農業はその対極にある人間観を持っている、持たなければならないのだ。その宣言を正登は記者達の前でした。この宣言は記者達の頭上を越えて、集落の仲間の心に、そして先祖代々の畑に、さらには都会の心ある人々にも届いたに違いない。