雪に寄せる・雑感

東京に、そして私の住む埼玉に雪が降り、今日は溶け始めた雪道を転ばないように気をつけながら歩いた。東京では16年ぶりの大雪とのことだ。昨日深々と降る雪を見ながら、山本健吉基本季語500選を手に取った。雪の項を見て驚いたのは雪にまつわる名称が多いことだ。数えたところ43もある。雪自体の名称については六花、雪華、しまり雪、雪紐、筒雪、冠雪、水雪、餅雪、小米雪、衾雪、しずり雪などがあることを初めて知った。季節の代表的景物として春は花、夏時鳥(ホトトギス)、秋の月そして冬の雪。山本健吉氏の解説の中で、雪と農作物の関係が取り上げられている。・・・即ち、昔から雪は豊年の瑞(しるし)であり、その年の農作物の豊凶を、山にかかる雪を以って占った。土地の精霊が、あらかじめ豊年を村の貢として見せるために、雪を降らせるものと考えた。だから雪は、稲の花に見立てられた。・・・山本氏選の俳句の中で「地の涯に倖せありと来しが雪」(源二)はこのあたりの心象を捉えたものだろうか。都会に住む者にとっては雪は降り始めはまさに空から降る美しい白い花びら、それが降り積もるとシャーベット状になり、ちょっと厄介なものになる。今回の雪は一日中降り続けた。時々外に出て雪の深さを見た。正岡子規の句がある。「いくたびも雪の深さを尋ねけり」子規は病床に居て、母親の八重と妹の律に聞いたのではないか。降り積もり深くなっていく雪に子規はどのような思いを馳せたのだろうか。昨晩雪の降る中、家の前の道路の雪掻きをした。フワフワ、サクサクしているうちにした方が後々良いと思ってのことだった。それでも雪は重い。終った頃には少し汗ばむほどだった。中村草田男は「降る雪や 明治は遠く なりにけり」と、過ぎ去った明治を懐かしむように、それでいて明治のその時にあたかも自分自身が今いるかのような、不思議な存在の2重感覚でこの俳句をつくったとのことだ。何もかも白くなっていく景物の中で、私にもその感覚が少し分かったような気がした。「全部雪のせい」なのだ。