青山元不動、白雲自去来

今日の朝、近くの内科医院で検査の時間を待っている時に閲覧用の雑誌を読んでいたところ、ある老舗の会社の社長の文が載っていた。有名な会社なので、興味を持って読んだ。題が白雲自去来となっていて、経営が大変だった時、ある禅僧から禅語の「白雲自去来」を教えられて、社長は経営危機を乗り越えていったという話だった。その禅僧は農民の例を挙げていた。夏の暑い日に農民が日陰になるような雲が出てきてくれないかと空を見上げているが、それらしき雲はいつまで経ってもやってこない。気を取り直して、汗水を流しながら働いているうちにいつの間にか白い雲がやってきた・・・要約するとそんな説明を禅僧は社長にした。社長は禅僧の言葉を支えにして経営危機を乗り切って行ったとのこと。念のため「白雲自去来」の意味を、ネットで調べてみるとこういう説明が出ていた。白雲自去来は青山元不動と一つになっていることがまず分った。

そしてその意味はこうだ。

「いつ、どこで、何をするにしても、万縁万境(ばんえんばんきょう)(周囲のいろいろな現象)に心をとらわれて右往左往することなく、山のように少しも動ずることなく、泰然としてわが道を貫き通せ」

この説明では白雲は周囲のいろいろな現象ということになる。そこで考えるのは、なぜその禅僧は青山元不動と言わなかったのだろうか。経営危機の時、社長はえてして焦り、取り乱してしまうものだ。デーンと構えているようにとアドバイスするのが普通だろう。つまり青山元不動だ。白雲は禅語では心を乱すさまざまな現象と説明されているが、禅僧はそれを「目前の仕事に打ち込んでいれば必ずやってくる解決」と説明した。本来の意味からするとやや外れた解釈のように思えるが、もし私がその社長なら、デーンと構えているようにとアドバイスされるよりも、大変でも目の前の仕事に打ち込みなさい、そうしていれば必ず解決が来ると言われた方が、現実的な気がする。仕事に没頭していれば迷いが入らない。

天気予報では明け方東京、埼玉にも雪が降るとのことだったが、予報は外れ、気持ちの良い青空が広がっていた。白い雲が次から次へとやってくる。太陽の光を受けて白く輝いている。「青空としての私」を書いた禅僧山下良道師の雲についての説明を思い浮かべながら、対機説法的な禅語解釈に感心した次第だ。