青年の頃読んだ本をシニアになった今読むということ・吉野 弘の詩

NHKのクローズアップ現代で吉野弘の詩を取り上げていた。現在という状況が吉野弘の詩の世界を必要としている、という内容だった。確かにそうだと思える。

私は若い頃、いっぱしの詩人を気取っていた。当時の現代詩を好んで読んだ。最初に読んだ現代詩は三木卓の「東京午前3時」だったように思う。このブログでも書いたことがあるが、何人かの詩人の詩を愛読した。その中でも一番衝撃を受けたのは村上昭夫の「動物哀歌」だった。吉本隆明、辻井喬、谷川雁、黒田喜夫などの思想詩と言えるものは難しくて、なかなか理解できなかった。それに対して吉野弘の詩は私の感性に寄り添ってくるところがあった。吉野の詩世界との最初の出会いは詩集「幻・方法」の「I was born」だった。

この詩は父と息子の対話の形をとっている。蜉蝣に託して息子を産んだ後、すぐに無くなった母親のことを父は息子に話している。それは子供を産むために卵を胸の方まで充満させて、自分を犠牲にして短い命を生きている蜉蝣の雌に託しての思い出だった。

「それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。淋しい つめたい光の粒粒だったね。・・・そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは」

若い頃の自分は何に共感したのか、今では正確には思い出せない。しかし、人生経験をそれなりに積んできた今の自分は若い頃とは別の共感の仕方ができるかもしれない。

「せつなげだね」と感じると同時に蜉蝣の雌の子供に寄せる必死の思いと喜びに自分の気持が寄り添っていく。

吉野弘の詩を論じた郷原 宏の「やさしい受難者」を読み、吉野弘の詩世界について理解を深めることができた。時間をとって吉野弘の全詩集を読んでみたい。今なら分ること、気付けることがきっと多くあることだろう。