善悪の基準
善悪の基準という問題は古くて新しい問題である。旧約聖書、創世記では神はアダムとエバにこのように言った。
「しかし、善悪の知識の木から取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
善悪を知ることは善悪を支配することにつながっていく。善悪に対して絶対的基準を持ち、善悪を支配している神の領域に踏込むことを神は禁じたのだろう。しかし人間は善悪を判断することを求めた。それは自然な感情だったのかもしれない。しかし、人間の問題は神のように絶対的基準を持つことができないにもかかわらず、人間の相対的基準を絶対化したいという衝動を持っているところにある。これが争いの原因ともなっている。
また善悪の基準も時代とともに変っていく。勿論、時代が変っても、人を殺してはならない、盗んではならない、偽りを言ってはならない・・・というような普遍的な基準はある。動物の世界では群れの中で子殺しをすることがある。ライオンとかチンパンジーの雄は自分の子をつくるために他の群れの雄の子を殺す。動物の世界に善悪の基準はあるのだろうか。ないのだろうか。
人間は善悪の判断を放棄することはできない。しかし、自分の判断と行動が善であるか悪であるか、いわば白黒のように判別することは実際には難しいのではないか。なぜなら人間は最終的には自分がしていることの全体を把握しているわけではないからだ。白だと思っても黒が混ざっていたり、灰色の部分もある。その結果を引き受けなければならない。
それが犯した罪に対する罰なのかもしれない。
損得の基準ははっきりしているが、善悪の基準はそうはいかない。
それにしても善悪を科学的に解明することはできるのだろうか。それができれば善悪を科学的に支配することもできるはずだ。