仕事の意味

仕事とは何か。そんなことを年の初めに改めて考え、今年一年の私の仕事観としていきたい。昨年12月6日の日本経済新聞、「半歩遅れの読書術」で経済学者の渡辺利夫氏が、興味深いエッセイを寄せている。題は「森田正馬とソルジェニーツイン」。森田の本は私も若い頃、読んだ記憶がある。さて渡辺氏は神経症の根源にあるものは「死の恐怖」と森田の説を紹介している。その線に沿って見解を展開しているが、私の場合「死の恐怖」もあったが、それ以上に深刻だったのは、只今現在の自己の存在感が希薄であるということだった。そのため自己嫌悪と自己憐憫が相反する形で葛藤を繰り返していた。

さて渡辺氏の要約によれば森田の説は「仕事」は事に仕えて対象と合一できる無二のものであり、一つでも仕事を成し遂げさせ、体験的な自信を与え、心身機能発揮の爽快を感じさせ、内向から外向へと変じさせることを目指した。一般論としては私自身この考え方に共感を覚えるが、私がその時思ったことは、「この仕事が本当に自分を救ってくれるものなのかどうか」「この仕事が本当に自分に合っているのか」ということだった。勿論人は食べていかなければならないので、仕事の目的の第一は生活費を稼ぐことであることは言うまでもないことだが、やはり「人はパンのみにて生きるにあらず」だ。自分の社会的才能についても懐疑的だった。社会で通用しない人間ではないか、と言う不安がいつも足かせのように私を捕えていた。これは青年期特有の現象かもしれないが、その後のサラリーマン生活に私自身過度に適応して行ったのは、この辺りの理由があったのかもしれない。高度成長期でもあり、結婚してからも毎晩11時過ぎ迄残業が続いた。疲れ果てて、自分のことを考える余裕も無くなった。・・・あれから約40年。この齢になって改めて仕事とは何か、を考えている。

考える順序として、自分は仕事を通じてどのような価値を産みだすことができるか、を第一に考えたい。二番目はその仕事を通じて自分が安らぎを得ることができるか、三番目は価値の対価として金銭的見返りを受けることができるか。生活のために働くから、自分の生き甲斐、恰好をつければロマンのために仕事をしたい。その意味では仕事は自分に与えられた志を実現していく「志事」、より良い社会づくりを縁の下の力持ちになって支える「支事」となる。この齢になってやっとそのように考える、実行に移すことができるようになった。