終戦記念日 1世にして2世を経る(その1)

 

今日は終戦記念日。戦没者記念式典の模様がテレビで中継されていた。第二次世界大戦での日本人の戦死者は310万人。実に当時の日本の人口の25分の1にあたる。なんと多くの死者を出したことか。歳が分かるが私は終戦の年、昭和20年に生まれた。子供の頃には東京空襲の焼け跡がまだあちらこちらに残っていた。バラックに住んでいる家族もよく見かけた。小学校に上がった時はまだ二部制が続いていた。食べるものを確保するため、家では庭に畑をつくり、鶏を飼っていた。父を手伝い、一緒に庭を掘り、畑を作って野菜を育てた。農家出身の父には農作業はお手のものだった。鶏は私の担当で、回りの土手でとってきたハコベを餌にして、味噌汁の貝殻を細かく砕いて食べさせた。このあたりは父から教わったようだ。電車に乗ると白い服を着た傷痍軍人が松葉杖姿で歩いてきた。子供の私はその姿を見るのが怖く、母の背中に隠れた。傷痍軍人は御国のために戦ってこのようになった、というようなことを言っていた。住んでいたのが王子の兵器廠の近くだったので、進駐軍に接収された後、進駐軍の兵隊が町中を行進していた。家の近くの若い女性の中には「パンパン」になる人もいた。近所の家の通用門から米兵が家の中に入っていく姿を見たことがある。母にそんなことを話したが、母は黙っているようにと怖い顔をしていた。当時の私達子供にとって溜まり場は駄菓子屋だった。少しでも小遣いを稼ぐために馬蹄形の磁石に紐をつけて道路をあるいて金物を集めた。私にとって楽しみの一つは「学習図鑑」を読むことだった。濃い臙脂の表紙に金色で学習図鑑の字。学習図鑑にはいろいろなことが書いてあった。私にとって、それは最初の読書体験だったかもしれない。子供の頃は身体が弱く、病院通いをした。ひょっとしたら長くは生きられないかもしれないと思ったが、自分のことよりも寝込むことの多い母のことが心配だった。