状況の中で言葉は語られる

私達はテレビなどでしばしば政治家の失言報道に接する。オフレコの内容が報道されたりもする。その際、弁解の言葉として「そういうつもりで言ったのではなかった。真意ではない」とか「前後関係を抜きにして、その言葉だけ取りあげられるのは不本意だ」という表現が使われる。マスコミは刺激的な発言に注目する傾向が強いので、確かに誇張などもあるとは思う。それでも公の立場で仕事をする人たちはもっと自分の発言に責任をもってほしい。さらには弁解しないで済むようにモノの言い方を工夫してほしい、と思う。特に対外的な発言は国際的におおきなしこりを残す。

さてその上で最近思うことは言葉というものは殆どのケース、状況の中で語られるのであり、どのような相手に、どのような雰囲気で語られたのか、考える必要があるということである。状況文脈の中で、発言を正確に理解する必要がある。しかしながら私達にとってはテレビなどの断片的、ハイライト的報道では、どのような状況で、どのような相手に語られたのかを十分に知ることは難しい。このような問題は昔の話になるとさらに難度を増していく。最近読んでいる井上洋治神父の「イエスの福音にたたずむ」。その中に姦通の現場で捕えられ、イエスの前に引き出された女性をイエスがかばう話が紹介されている。井上神父は読み解く。

「こんな女は石を投げて殺してしまえ」と叫ぶ人々に対して、イエスは「あなたがたに本当にそんな資格があるのか。あなたがたは、どんな目で女性を見ているのか。胸に手を当てて考えてみなさい」「性の対象か、子を産む道具ぐらいにしか女性を見ていないあなたたちは、この女と変りはしないのだ」

そしてこのヨハネの福音書のシーンにマタイの福音書の有名な一節を重ねる。「みだらな思いで他人の妻を見るものはだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」

イエスは言った。「あなたがたのうちで罪のない者が最初に彼女に石を投げなさい」

石を持った年長者からその場を立ちさっていったとヨハネの福音書は伝えている。

イエスは男女、大人子どもを問わず、天の父、アッバ(お父ちゃん)が私たちを大切にしてくださっている、という当時では考えることのできない平等意識を持っておられた。一方生きるということについては人々の日常生活の感覚を共有しておられた。

ナザレ人イエスは相手をみながらその時その時の状況の中でもっとも相応しい言葉を語られたのだと思う。そのような想像力は昔の本を読む場合には特に求められるのではないだろうか。