ビジネスモデル・一年を振り返って

今年1年、ビジネスモデルについて、また身辺雑事について書いてきた。簡単に整理しておきたい。ビジネスモデルのデザインとプロデュースについては2つ、私なりの工夫を加えた。

1.オリジナルのビジネスモデル・キャンパスは9つのブロックで構成されているが、私は、第二ブロックの価値提案に「時流編集」を加えた。

2.9つのブロックを2つのグループに分けてみた。

第一グループは、顧客セグメント、価値提案、主要活動、パートナー、収益の流れ  第二グループは、コスト構造、リソース、顧客との関係、チャネル

ビジネスモデルのデザイン作業を始める時、私はまず第一グループのデザインから開始する。プロトタイプができた時点で第二グループの作業に入る。

現在ではビジネスモデルという用語は社会的に定着したように思う。これからますます重要になるのは、ビジネスモデル的思考とそれを実現するプロデュース力だ。私個人としては中小企業、ベンチャー企業がもっとビジネスモデルに関心を持って、経営に取り入れていってほしいと思っている。さらにソーシャルビジネスの分野のリーダーにも是非ビジネスモデルに関心を持ってもらいたい。ビジネスモデルは不可能を可能にする力を秘めているからだ。

 

依存症の時代

以前のブログで私達は消費に疲れているのではないかと書いた。そのためには消費ばかりの生活ではなく、自らも生産することを始めたらどうか、と提案した。そのとっかかりが野菜づくりだった。さて現在はモノだけでなく、時間さえも消費対象となっている。最近興味深い本が出た。『依存症ビジネス‐「廃人」製造社会の真実』(著者:デイミアン・トンプソン)。この本はアメリカ社会を背景に、普通の人々が依存症を生み出しかねない産業にいかに蝕まれているかを述べたものと言われる。副題の「廃人」という言葉が衝撃的だ。

以前はアルコールと薬物が代表的な依存症だが、最近はそれが多くの分野に拡がっている。

私がこれは依存症ではないかと思うのは携帯電話だ。電車に乗ると殆どの人と言っていいくらい小さな画面を見ている。電車を降りてプラットフォームでも、階段でも画面を見続けている。ゲームをやっている人はストップできないのだろう。

マーケティング用語で「リピーター」という言葉がある。販売する側にとっても望ましい顧客だが、場合によっては依存症的部分もあるかもしれない。依存症を煽るために大企業がテレビなどのマスメディアを通じて広告を流している可能性もある。

依存症に犯されないようにするにはどうしたらいいか。このようなモノ、コトを全て遮断するのは難しいが、以下のような対応はどうだろうか。

1.自分が何かに依存症的傾向を持っているかどうか、確かめる

2.なぜそのモノ、コトに依存するのか、その理由を考え、深刻な場合は、親しい友人、場合によっては専門家にも相談する。一人で抱え込んでしまわない。

3.時間を決めてそのようなモノ・コトを遮断する。たとえば1時間とか2時間とか。

そのような時間を自分の「こころの時間」「自然と触れ合う時間」にシフトさせていく。

大事なことは自分の生活と感情生活を依存ではなく、自律させることである。それは自由を回復する道につながっていく。消費の夢を見続ける「廃人」ではなく、目を覚まして主体的に生きる人間を目指すことだ。

 

 

人生 先に何があるのか分からないから頑張れる

一人一人にそれぞれの人生があり、幸せも試練もある。もしあなたの人生はこうなりますよ、と神さまが脚本家のように、人生が始まる前に、私達の人生をあらかじめ見せてくれたらとしたら、私達はどのように思い、行動するだろうか。恐らく良い結果にはならないだろう。幸せだけで塗りつくされた人生などない。幸せと共に悲しみ、苦しみ、試練が人生には必ずある。それが人生なのだと思う。70年生きてきて改めて痛感する。

私は会社を自主廃業した。全てが終った時、自分が自主廃業のためにやってきたことを振り返って思うことだが、もし最初にやるべきことを全部見せられたとしたら、「自分にはそんな大変な仕事はできません」と言ってきっと逃げ出していただろう。自分のようなものにも自主廃業ができたのは、先のことを取り越し苦労できないほどに、切迫した目前の問題にとにかく全力で取り組むということを余儀なくされたからではないかと、今になって改めて思う。そして自主廃業が無事終ったら「こんなことをやってみたい」という夢を胸の底で描き続けた。

自分が会社を自主廃業する時につけていた「業務日誌」を読み返しながら、明日どうなるか分からない不安を抱えながら、目の前の問題に必死に取り組んでいた自分の姿を思い出す。倒産の不安に怯え、揺れる綱の上を渡っていた。

人生もそうかもしれない。いつ死が訪れてくるか、誰にも分からない。その不安を抱えながら、人は今日一日を生きる。だからこそ、一生懸命生きることができるのではないか。不安があるからこそ、人は今日を生きようとするのではないか。目の前に次から次へと切迫した問題が出てくる。その問題への取り組みのつながりが人生となる。だから人は人生を歩むことができる。そして途中でどんなことがあっても「終り良ければ全て良し」と思いたい。その意味でもシニア時代の生き方は大事だ。

 

多民族共生時代

最近街を歩いていて外国人に出会うことが当り前のようになってきている。少し前まではそれほど多くなかったように思うが、いつからこのようになってきたのだろうか。私が時々行く飲食店ではミャンマーの人達が働いている。その一人の女性とたまたま話をする機会があったが、学費を稼ぎながら日本のビジネススクールで経営を勉強しているとのことだった。帰国後、ミャンマーの日系企業で働くのが目標だそうだ。

日本で働く外国人が増えている。以前私が借りていた市民農園では隣の区画の利用者は中国人で家族と一緒に市民農園の傍らの団地に住んでいた。聞くところによるとIT関係の会社で働いているとのことだった。お子さんが2人いる。

日本で働くには難しい日本語を勉強する必要がある。物価も、東南アジア、南東アジアの諸国に比べると決して安くはないはずだ。にもかかわらず、なぜ日本に来て、働くのだろうか。外国人にとって何が魅力なのだろうか。これから日本も否応なく多民族的になっていくことだろう。住人となった外国人と私達はどのように付き合っていけば良いのか。最近はイスラム系の人々に対する警戒心が日本人の間にも、残念なことに、広がっている。

私は若い頃、多民族国家であるマレーシアに家族で駐在したことがある。その時、それぞれの民族の文化に接する機会を持つことができた。例えばイスラム教、中国人の民間宗教、ヒンズー教。その関連でさまざまな行事がある。共生し、平和を保つのは簡単なことではない。

日本人も多民族が共生するためにはどうしたら良いのか、真剣に学ぶ時代になっていると思えてならない。

 

ブレストと合意形成

ビジネスモデルの話をスタッフとしていた。その時たまたまだったのだが、使っていたテーブルがひし形をややつぶした形だった。

そこでこのテーブルを使いながら、ビジネスモデルのデザインプロセスと合意形成・選択肢の絞り込みについて説明した。デザインプロセスは突飛なアイデアも含めて、アイデア出しのプロセスで、ブレーンストーミングはこのプロセスに入る。ひし形の左部分。このアイデア出しが出つくしたら今度はひし形の右部分に移行する。この場合、アイデアが出尽くしたと見極める臨界点の把握が重要だ。早すぎてもいけない。右部分に移行する時は会議のメンバーにその旨伝えて、選択というか、精錬というか、非本質的なものを取り除いて絞り込み、プロトタイピング作業に入っていく。言葉だけで説明するだけでなく、図を使うことが理解の助けになることが多い。今回はタイミングよくひし形のテーブルがあったので、それを使った。スタッフに聞くと「分かりやすかった」との感想。

さてこのひし形の右半分は合意形成プロセスになる。アイデア出しは自由のプロセスで、だれでも楽しくアイデアを出せるが、重要なのは右半分だ。削り落としていくプロセスで難しい作業となる。そのためには目的と方向性とどのような未来を共有できるか、話合っていくことになる。合意形成には実行責任も伴う。

 

相手の立場、お客様の立場に立つ、ということは?

「相手の立場に立つ」と私達はしばしば言う。それは「自分の立場」だけではなく、相手の立場も考えるということだが、それではやや理屈っぽいが、どうしたら「相手の立場」に立つことができるのだろうか、また何が実現できたら「相手の立場」に立ったと言えるのだろうか。「相手の立場」に立ったつもりが依然として「自分の立場」から出ていない、ということもありうることだ。

「相手の立場」に立つための第一歩はやはり会話、コミュニケーションだろう。それは相手の考え、気持ちにフォーカスしたコミュニケーションで、相手の真意、相手の考え、気持ちの全体像を把握することが目的になる。多くの情報を得た後で、それらの情報を自分なりに「編集する」。この「編集」の仕方によっても理解度の差が出てくる。自分が「相手」の場合、一番嬉しいのは「そこまで分ってくれているのか」ということが感じられる時である。これは共感の世界かもしれない。一方理解が進んでも「私の立場・考え」と「相手の立場・考え」が違うことも当然ある。共感と違いの確認を通じて、シャープな形で「相手の立場・考え」が更にクッキリとしてくるのではないか。

 

クリスマスツリーと星

クリスマスの時期。木に掛けられた電球とかLEDのイルミネーションが美しく輝く。家の近くの立教学院の門を入ったところにヒマラヤ杉が2本聳えている。イルミネーションで飾られている。最近はLEDのイルミネーションが普及した。色がとてもきれいだ。

ところで、あるところでクリスマスツリーの由来を聞いた。現在のクリスマスツリーとは大分違う。ある人が冬の林で枯れ木の間に星が輝いているのを見て、木に星を模ったものをつけたのが始まり、とのことだった。

今晩は満月のクリスマスだった。本当に月がきれいだった。紺青の夜空に黄金色の月。そして星も一段と輝いて見えた。枯れ木に美しい星を飾る、昔の人のそんな気持ちが分るクリスマス・イブだった。

 

イエスの誕生‐もう一つのストーリー

イエスの誕生物語には羊飼いと3人の博士が登場する。クリスマスの絵にもその様子を描いたものが多い。ところが羊飼いと3人の博士がイエスを見たのはそれぞれ別の時期だった。誕生直後は羊飼い、3人の博士はイエスが1歳を過ぎた幼子の時だった。博士達がイエスに出会った後、悲劇が起る。当時のヘロデ王は博士達が言う「ユダヤ人の王として生まれた子」を恐れ、ベツレヘムとその近辺の2歳以下の男の子を一人残らず殺させた。イエスは難を逃れてエジプトにいた。マタイの福音書ではこの殺戮も預言の成就を理解する。

さて私は思うのだが、イエスは後になってこの事実を母親かあるいはベツレヘムか近辺に住む人から聞かされたのではないか。言い換えれば自分の代わりに、自分のために多くの子供たちが殺された、ということを。私が思い巡らすことは3つある。

一つはなぜマタイはこの事実を書き記したのか。預言の成就だけではないような気がしている。ユダヤ人ではないヘロデ大王に対する非難もこめられているのか。

もう一つはこの事実を知ったイエスがそれをどのように受け止めたか、ということである。

最後に母マリアだ。ユダヤという民族世界の中で、ことの経緯はユダヤ社会にひろく伝えられたことだろう。マリアは同胞から厳しい眼差しを受けたのではないか。「あなたの息子のために私達の子供たちは殺されたのだ」と。そのような視線をうけながらイエスを育てあげたマリアにもっと目を向けたい。

 

議事録作成

仕事で打ち合わせがあった時、私は原則として議事録を作成するようにしている。議事録の構成、作成方法は人によってそれぞれあるだろうが、議事録の主な目的は3つあると私は考えている。

1.話し合った内容について出席者全員が確認し、情報共有をする

2.議事録をベースにして合意形成に向けての流れを出席者が自分なりに思い巡らす

3.議事録を作成した者の会議の内容についての理解度を確認することができる

議事録の作成はできれば出席者が持ち回りで担当すると良いかもしれない。会議の流れを把握しようと努め、出席者の発言に集中力を持って耳を傾ける訓練にもなるからだ。

そしてできれば議事録にもNarative(ストーリー性)も加えたい。そうすれば会議の流れ、雰囲気も伝わってくる。会議に出席していなかった関係者にも会議の内容を伝えることができる。いわば非構造化に属する情報を関係者とも共有することになる。

 

仕事と作業

仕事と作業は確かに違う。最近そう思ったのは有楽町の、最近人気が出てきて行列ができるようになったラーメン屋でラーメンを食べた時だった。このラーメン屋は2年前ほどに開店した。本社が和菓子屋とのことで味付けが和風だ。開店早々、まだお客がついていない時に私は味が気にいってしばしば食べにいった。店主はこの味が受けるかどうか、ちょっと不安気だった。私には新鮮な味付けでチャーシューもとろけるように柔らかく、これは間違いなく受ける、と思った。その後、しばらく足が遠のいていた。最近時々寄ってみたが、いつも行列ができていて、待つのもどうかと思い、食べずしまいだったが、今日午後4時頃たまたま寄ってみたらすぐ座れたので、久しぶりの和風ラーメンを期待しつつ待った。ところが食べてみた感想は、?だった。前の味はどこに行ったのだろうか、また沢山のお客さんを捌くためか、ラーメンのスープもちょっとぬるい。

お店が流行り、お客さんが押しかけるようになるのは、飲食店にとっては良いことだが、いままで「いい仕事」をしていたのが、どこか機械的な作業のようになっている。いつかこの反動がくるのではないか。努力、苦労、創意工夫、つまり仕事の結果、お店が繁盛し始めた時こそ、作業を仕事に戻すことが必要ではないか。